2012年6月22日金曜日

「モリー先生との火曜日」ミッチ・アルボム 書評141(2)

Mitch Albom
「愛」の違和感

著者は、テレビのニュースで旧師モリー教授が死にかけていることを知る。大学時代の恩師で、一番好きだった先生だ。16年ぶりに見舞いに出かけたことを契機に、毎火曜日に訪問をし続け、死期を看取った。

自分のことを考えた。学習院高等科時代にとてもよくしていただいた先生がいた。今でも足を向けて寝られない。尊敬もしている。その師が死の床にあると聞けば、飛んでいって見舞うだろう。しかし、16年を経てお会いしたとたん、
「5分後、モリーは僕を抱きしめていた。(略)『やっともどってきてくれたね』ささやくような声。(略)かがみこむぼくの二の腕をつかんで離そうともしない。十何年もの空白のあとでこんな愛情を示されて、内心びっくりした」。きっと私ももっとびっくりして、居心地の悪い思いをするだろう。

話せなくなった後で親友と会う機会があったらどうするか。男同士。モリーは答える、
「手を握り合う。それだけでお互いの間に沢山の愛が流れるだろう」。
日本人でもそのようにするかも知れないが、このように解説(認識)する人はとても少ないだろう。

ゆっくり死に向かっているモリーの家では、
「みんながいっしょに座っているとき、雨のように愛情が注がれ、キスやジョークが交わされ、くり返しベッドの脇にかがんでは手を握り合っているのに、少しもふしぎはない」
典型的な日本の家庭ではそのような光景になることが少ないので、それが起こったら不思議な感じになるだろう。

(この項 続く)

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