2012年6月24日日曜日

「モリー先生との火曜日」ミッチ・アルボム 書評141(4)

紫 式部
日本に「愛」は無かった
多くの日本人読者も感動した、「モリー先生との火曜日」で著者が描出した愛情交歓場面、、。私は違和感を感じた。日本人はこのように自己を互いに、親しい者同士でもさらけ出すことは少ない。実は「愛」という観念が、アメリカのキリスト教文化と我が国では異なっているのだ。

「愛」という言葉は、本来日本には無かった。源氏物語に登場しないので、大和言葉ではない。言葉がなければ、その概念も存在しない。江戸時代の文物に当たっても、現在の意味での「愛」は発生していない。動詞としての「愛す」は狭衣物語では「(仏像を)大事にする」、平家物語では「遠慮して扱う」、西鶴の世間胸算用では「(子を)あやす」で(以上「明解古語辞典、三省堂)、意味が違う。

「愛」はだから、「教養」「啓蒙」「哲学」などと同じく、明治時代に西洋の概念を取り入れたときに創出された新訳語と考えられる。

「モリー先生との火曜日」に描出された愛情場面に、日本人でも(想像して)感動することは出来る。しかし、それを自分たちの行動規範として取り入れて実行するようなことは、私たち社会全体としては遠い話なのだ。「モリー先生バージョンの愛」は日本で見いだすことが稀、ということだ。
(この項、終わり)

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